模倣と発見について

-Aco-

自分の好きなダンサー、踊り手を模倣しているうちに、その模倣と自分の性質が相まって、何かが生まれ、自分のスタイルができあがっていく。

この過程は、タンゴを踊る楽しみの中でも、大きなものの一つではないかと思っています。


少し観点は違いますが、模倣と発見について、坂口安吾は『堕落論』の中で、次のようなことを言っています。


----引用ここから----

伝統とか、国民性とよばれるものにも、時として、このような欺瞞(ぎまん)が隠されている。
凡そ自分の性惰にうらはらな習慣や伝統を、恰(あたか)も生来の希願のように背負わなければならないのである。
だから、昔日本に行われていたことが、昔行われていたために、日本本来のものだということは成り立たない。

外国に於て行われ、日本には行われていなかった習慣が、実は日本人に最もふさわしいことも有り得るし、 日本に於て行われて、外国には行われなかった習慣が、実は外国人にふさわしいことも有り得るのだ。 
模倣でなく発見だ。

ゲーテがシェイクスピアの作品に暗示を受けて自分の傑作を書きあげたように、個性を尊重する芸術に於てすら、模倣から発見への過程は最も屡々(しばしば)行われる。
インスピレーションは、多く模倣の精神から出発して、発見によって結実する。

 ----引用ここまで----
引用元:『堕落論』 坂口安吾(新潮文庫) ※画面上で読みやすいように改行を入れています

もちろん原文に赤字などありません。
お気に入りの言葉なので赤字にしました。

「まさしく、そうなんだよなぁ。」と思います。